ために友達システムを早

友達がいない、、、という内容の日記を某SNSで読んだ。
社会問題を含む深刻なものではなく、たんに、行動は一人ですーーというものだった。
友達が欲しいけれど、募集するのもナンだし、友達は作るものではなく、出来るものだ、との主張をされていた信用债


そうかな。
たしかに友達は自由。
義務でもないし、生活の手段でもない。
しかし、お一人様たちがネットワークを駆使し、独居住まいの万が一の時のために友達システムを早々と構築している人々もいる。
それは友達というよりは、互助会のようなものである。
ワーキングママ友のつながりにも似ている。
緊急、もしもの時の子供の預かり合い。
それは、真の意味の友達とは言えないが、まあ友達のうちの一つだろう。


困った時に、もたれ合えるのが友達活動場地租用?
それは家族?
依存し合う?
社会制度が整うと、受け皿やセフティネットが、国レベルで手を差し伸べてくれる。
が、なかなか、隙間や、こぼれ落ちるものもある。


わたしは、真の意味では友達はいない。
募集する気はさらさらない。
この指、止まれ!わたしと一緒に遊びましょう!
なんて、呼びかけない。


しかし、勝手にわたしから一方的に友達認定している人もいる。
支持者、ファンみたいなものか。
一対一の、面と向かってのお付き合いが苦手なので、どうしても一方通行になってしまう。
逆に「ファンです」と言われることも稀にある。
こういう、わたしみたいな人、意外と少なくないと思っている。


一人で行動する方が、意見を調整する必要がなくて便利だ。
が、不便でも一緒に行動することに意義がある移民顧問
だとすると、自然に友達が出来るのではなく、努力して作るものではないだろうか。
人に合わさず努力する気もないのに、自然に出来る友達なんかいないように思う。
喜びも悲しみもシェアするなら。
良いとこどりは、友達とは言えないのでは?
もたれ合わない、自立、独立した者同士の友達とは?
信頼は一朝一夕には築けない。
おいしいところだけ共有するのは、友達なんだろうか?


わたしは、基本的に人を信用していない。
裏切られたとしても、信じたのは自分であり、自己責任。
孤独と引き換えに自己愛が強すぎるのだろう。
頑丈な装甲車に乗って運転している。

うこの世には生きてない

宗教やら占いやら、科学で解明できないことを、別のものに頼ろうとする。
不幸な時は、藁をも掴む心境。
自分がそれで立ち直れるのなら、それでよい訂製月曆
ただし、他人に押し付けてくれるな、と言いたい。
自分教を持つべし。
わたしの実母(存命)は、(そんなものは、あるのか無いのか知らないが)「宇宙教」を信じたらどう?なんて近年、言っていた。
この人には、自分こそ教祖ばりに自己チューなので、「宇宙教」から「自己チュー教」と改名すればよいのでは。


あの母にして、この子(わたし)あり、だ。
兄妹は、姉だけしっかり者で優れていて、兄もわたしも、もはや、いるのか、いないのかわからないぐらい、もうこの世には生きてない感じである。
とりあえず、わたしは、子供や孫たちを遺した公司禮品
(あ、わたしはまだこの世を去っていないが)
それだけが、生きていた実証かも知れない。


とか言いながら、まだ、子育て後方支援係を任命されている。
はやく引退したいのだが、もうじきあと数十分で、ドヤドヤとタスクの山が押し寄せてくる。
早めにブログ遊びは終了し、お役目、お仕事、スタンバイしなければ。
これもスパイスかmyob 價錢
(その割に、予定スケジュールを乱され、疲労感が伴うが)


ということで、早く終えてサボりたい一心で、タスク処理に着手します。
(て、食事準備にかかるだけなんだけど。相変わらず大袈裟)

ていたのをよく覚えて

今日の文字、無駄遣いは、「思い出」。
高齢者にありがちな、「昔は良かった、、、自分は偉かった」
あるいは、「昔は大変だった。それに比べて、今の人は、どーこーあーこー」
に、今日はならない予定。あくまでも、予定であるが。


誰も知らない、無名中の無名人である、超個人的肉親の人物の思い出を辿る。
(蝶ブログには最低一度は綴っている)


父方の祖父。
わたしが3歳半で他界。(享年72歳)
記憶に残るのは優しい祖父。
廊下を渡る離れで、晩年は脳卒中で伏していた。
祖母が自宅で介護、看護。
祖父の部屋に行くと、袋物のお菓子を出してくれた。
後遺症のため手が不自由なので、脇に袋を挟んで、口に咥えて(歯で?)袋の端から開封していたのをよく覚えている。
あとは、井戸前、蔵前の、家屋の壁に面して木製の120センチ?(150センチ?)ぐらいの大工道具入れ家具が置いてある土間スペースに立って、夜のおかずになるニワトリをぶら下げている姿をうっすら記憶している。
のだが、、、わたしが3歳半で亡くなり、それまでは病気だとすると、伏している期間は短く、病気発症はわりと遅かったのか?
でなければ、昼間、作業している祖父がわたしの記憶にあるとすると、0?2歳で覚えていることになり、わたしは天才級に記憶力が良いことになる。
そんなはずはないので、ニワトリ男性は別の人である可能性がある。
父はあまりそういう作業には関わらないので、その人物は父ではないとたぶん思うのだが、、、
ひょっとすると、母の兄(伯父)とか?
今となれば、確認のしようがない。
祖父の思い出は、お菓子と、お葬式当日だけ。
大人たちが大勢集まり、当時5歳半の姉と、いつもとは違う雰囲気に、はしゃいでいた。
姉が祖父の顔にかかっていた白い布をちらりとめくったりして、こっそりイタズラして遊んだ。
3歳半でも、記憶というものは強い。
心理学的には、幼い頃、災害や事故に遭うとトラウマになることだろう。
その3歳半を最後に、それ以前の幼い頃の記憶は祖父に関してお菓子以外にはあまりない。
子供は、日頃貰えない、既製品の市販のお菓子が印象に残っているのだと思う。
兄や姉はわたしより歳が上なので、もう少し祖父のことを覚えているだろうけれど、わたしはお粗末な記憶しかない。
そう言えば、お葬式に遠方から来て参列した親戚の子供たち、兄弟(小学校低学年?)二人で大げんかをしていた。
それがお葬式の時なのか、法要の時なのか定かではないが。
二人とも、その後もよく知る人物だ。
わたしより弟は5歳ぐらい上、兄は7?(8?)歳ぐらい上。
団塊の世代である。


祖父は、モノクロの写真でしか知らない。
わたしが直前見て知っているのは、3歳半までだが、明治生まれの祖父を取り巻くヒストリーがある。
今日は書く気がしないので、またそんな気になれば書くかも知れない。


簡単な目に見える、さらっとした思い出シリーズ。
はい、次、祖母。
祖母は、わたしの記憶によく登場する。
わたしが生まれた時から、祖母が亡くなる時までのお付き合い。
母が仕事で忙しいので、平常の家事は祖母が担っていた。
畑から野菜を摂ってきて、煮たり焼いたりしてそのまま食卓へ。
季節のツクシもアク抜きして調理後、食卓へ。
そこらへんにあるものは、なんでもかんでも食卓へ。
わたしは、来る日も来る日も単調な野菜のおかずにうんざりしていた。
茄子の素揚げとタケノコの天ぷらは好きだったけれど。
今の健康な体は祖母が作ってくれた食物のおかげだと、とても感謝している。
やがて祖母は、コロッケを作ってくれるようになり、わたしはそれが大好物だった。
野菜は自然に勝手に生えてくるわけではなく、育てているのだが、生業にしていないため家庭菜園の域を出ないにしても、作付け面積は広かった。
ほうれん草、小松菜などの葉物、トマト、きゅうり、茄子、大根、じゃがいも、などなど、祖母が一人で育てていたように思う。
朝夕、1日2回、玄関周りの板間を雑巾掛けしていた。
雨戸の開け閉めから始まり、きちんと家事をこなす働き者だった。
(その雨戸、開閉にコツがあり、なかなかすんなり行かず、今もわたしを手こずらせている)