ていたのをよく覚えて

今日の文字、無駄遣いは、「思い出」。
高齢者にありがちな、「昔は良かった、、、自分は偉かった」
あるいは、「昔は大変だった。それに比べて、今の人は、どーこーあーこー」
に、今日はならない予定。あくまでも、予定であるが。


誰も知らない、無名中の無名人である、超個人的肉親の人物の思い出を辿る。
(蝶ブログには最低一度は綴っている)


父方の祖父。
わたしが3歳半で他界。(享年72歳)
記憶に残るのは優しい祖父。
廊下を渡る離れで、晩年は脳卒中で伏していた。
祖母が自宅で介護、看護。
祖父の部屋に行くと、袋物のお菓子を出してくれた。
後遺症のため手が不自由なので、脇に袋を挟んで、口に咥えて(歯で?)袋の端から開封していたのをよく覚えている。
あとは、井戸前、蔵前の、家屋の壁に面して木製の120センチ?(150センチ?)ぐらいの大工道具入れ家具が置いてある土間スペースに立って、夜のおかずになるニワトリをぶら下げている姿をうっすら記憶している。
のだが、、、わたしが3歳半で亡くなり、それまでは病気だとすると、伏している期間は短く、病気発症はわりと遅かったのか?
でなければ、昼間、作業している祖父がわたしの記憶にあるとすると、0?2歳で覚えていることになり、わたしは天才級に記憶力が良いことになる。
そんなはずはないので、ニワトリ男性は別の人である可能性がある。
父はあまりそういう作業には関わらないので、その人物は父ではないとたぶん思うのだが、、、
ひょっとすると、母の兄(伯父)とか?
今となれば、確認のしようがない。
祖父の思い出は、お菓子と、お葬式当日だけ。
大人たちが大勢集まり、当時5歳半の姉と、いつもとは違う雰囲気に、はしゃいでいた。
姉が祖父の顔にかかっていた白い布をちらりとめくったりして、こっそりイタズラして遊んだ。
3歳半でも、記憶というものは強い。
心理学的には、幼い頃、災害や事故に遭うとトラウマになることだろう。
その3歳半を最後に、それ以前の幼い頃の記憶は祖父に関してお菓子以外にはあまりない。
子供は、日頃貰えない、既製品の市販のお菓子が印象に残っているのだと思う。
兄や姉はわたしより歳が上なので、もう少し祖父のことを覚えているだろうけれど、わたしはお粗末な記憶しかない。
そう言えば、お葬式に遠方から来て参列した親戚の子供たち、兄弟(小学校低学年?)二人で大げんかをしていた。
それがお葬式の時なのか、法要の時なのか定かではないが。
二人とも、その後もよく知る人物だ。
わたしより弟は5歳ぐらい上、兄は7?(8?)歳ぐらい上。
団塊の世代である。


祖父は、モノクロの写真でしか知らない。
わたしが直前見て知っているのは、3歳半までだが、明治生まれの祖父を取り巻くヒストリーがある。
今日は書く気がしないので、またそんな気になれば書くかも知れない。


簡単な目に見える、さらっとした思い出シリーズ。
はい、次、祖母。
祖母は、わたしの記憶によく登場する。
わたしが生まれた時から、祖母が亡くなる時までのお付き合い。
母が仕事で忙しいので、平常の家事は祖母が担っていた。
畑から野菜を摂ってきて、煮たり焼いたりしてそのまま食卓へ。
季節のツクシもアク抜きして調理後、食卓へ。
そこらへんにあるものは、なんでもかんでも食卓へ。
わたしは、来る日も来る日も単調な野菜のおかずにうんざりしていた。
茄子の素揚げとタケノコの天ぷらは好きだったけれど。
今の健康な体は祖母が作ってくれた食物のおかげだと、とても感謝している。
やがて祖母は、コロッケを作ってくれるようになり、わたしはそれが大好物だった。
野菜は自然に勝手に生えてくるわけではなく、育てているのだが、生業にしていないため家庭菜園の域を出ないにしても、作付け面積は広かった。
ほうれん草、小松菜などの葉物、トマト、きゅうり、茄子、大根、じゃがいも、などなど、祖母が一人で育てていたように思う。
朝夕、1日2回、玄関周りの板間を雑巾掛けしていた。
雨戸の開け閉めから始まり、きちんと家事をこなす働き者だった。
(その雨戸、開閉にコツがあり、なかなかすんなり行かず、今もわたしを手こずらせている)