召されるのかも知れ

ある新興宗教の信者さんが不治の病にかかった。
枕元にはズラリとその宗教関係者が病人を囲んでお祈りする。
結局、その人はしばらくして亡くなった。
その様子を見ていた友人の人はつぶやいた。
「なんの力にも役にも立ってない」と外賣盒批發


しかし、本人にしてみれば、こころが救われたかも知れない。
周りから見ると、ばかばかしいとしても。
どんな悲惨な悲劇のどん底にいても、宗教が自分を救ってくれるなら、立派なものだ。


「あなたは、神の元に召されます」
そんな教えがある宗教があるとしたら、喜んで神の元に召されるのかも知れないが、悪用されると大問題、社会問題だ。
国ごと、一丸となって突き進んでいた時代もあった招牌設計
深刻である。


ある記事で紹介されていた話。
死ぬと、自分は死んだことがわからない。
客観的には、死は存在するが、主観的には死は無いそうだ。
だから、心配しても始まらないとのこと。
あっけらかんとして明るい。
ふむふむなるほどと納得できた。
考え方も色々。
自分が好きな考え方を選ぶとよい。
選択肢が多すぎて、眠くなりそうだ。
残された自由時間を使ってしまうには、あまりにももったいない。
不眠で睡眠不足の人にはちょうど良い睡眠導入剤になる。
わたしには、たんに集中力や緊張感が持たなくなるだけの話である。
眠るのが大好きで、大の楽しみ、というのも、立派な教え、生き甲斐の一つだとか月餅盒
(冒頭のミニチラシに紹介されていた)
眠り姫であるわたしは、「眠り教」の幹部ぐらいにはなれるだろうか?
否、なれない。
ただ自分が快眠を貪るだけで、人のことなど眼中にないから。


またまた長いだけの、睡眠導入記事になってしまった。